d.地歴・公民科 テーマ「科学者の社会的責任を考える」

1.仮説

前年度より実施し始めた「科学者の社会的責任を考える」授業づくりと実習で初年度は原爆学習を取り上げた。今年度は授業に連動させる形で広島実習を実施した。これは、学校における学習をふまえて、現地でさまざまなことを体験することにより、よりリアルな原爆像を生徒が構築することを企図している。被爆後、60数年が経過したとはいえ、広島にはさまざまな原爆の遺跡、証言者が存在している。直接それらにふれることでより確実な像を形成することができると考えた。

2.方法

事前の学習をふまえた上で、以下の日程で広島実習を実施した。高校2年生の生徒9名が参加し、引率教員は2名であった。

日程:
2008年8月6日~9日
内容:
6日午後 平和公園 平和祈念資料館見学
夜 灯篭流し見学
7日午前 放射線影響研究所 広島気象館見学
昼 広島市立大学平和研究所訪問、広島女学院高校生との意見交換会
8日 ワークショップ「広島原爆痕跡をGISでマッピング」の実施(午前中フィールドワーク、午後地図作成)
9日午前 自主研修

以下におもな訪問先と実習内容を記す。

2.1放射線影響研究所見学

2.2広島市江波山気象館見学

広島市中区の江波山公園内にある気象科学館 広島地方気象台が移転した後の建物に設置、気象をテーマとした博物館である。江波山気象館がもつ3つの側面とは、元気象台の側面、博物館的側面、体験型展示などがある。加えて今回訪問の目的として被爆建物としての側面がある。これは、昭和20年8月6日午前8時15分、広島市に投下された原子爆弾の被害を受けた旧気象台の建物はその一部が保存され、原子爆弾被害の様子を現在に伝えている。原爆の爆風で曲がった窓枠やガラスの破片が突き刺さった壁に被爆の痕跡を見ることができた。旧広島地方気象台は、原子爆弾と枕崎台風の二重災害に立ち向かう気象台職員の姿を描く柳田邦男氏のノンフィクション「空白の天気図」の舞台になっている。
広島気象館屋上にて爆心地方面を臨む
集合写真

2.3広島市立平和研究所訪問

ここでは、研究所水本和実先生のアレンジにより、地元の広島女学院高校生(5名)との交流会を実施した。女子高校生は、JICSという平和活動を行っているクラブのメンバーである。

まずJICSによるプレゼンテーションがあり、その後質疑応答を行った。本校生徒からは、活動で行った署名の人数、アメリカ人とのディスカッションの内容、平和サミットの内容などの質問が出された。逆にJICSの生徒からは、平和学習の内容、広島に来てみての印象、核廃絶論か抑止論かへの意見表明などが出された。

その後、核廃絶に関する意見交換も行った。核問題に関しては、双方から活発な意見が出された。

2.4広島原爆痕跡をGISでマッピング

広島の町を午前中、フィールドワーク形式で歩き、町に現存・碑・案内板などといった形で存在する被爆の痕跡を調べ、午後にそれをパソコンで地図上に起こした。今まで転々として歩き見たり、広島気象台などから見下ろしたりした広島の町、そして被爆の痕跡をもう一度自分たちの足でたどり、それらを地図上にプロットすることにより爆心地からの位置関係についての理解をより具体化することを目的とした。

まず、原爆ドームを中心に、北・東・西の3班に分かれてフィールドワークを行った。午後は、13時に集合し、午前中のフィールドワークを元に竹崎先生(中国書店・GIS研究者)の指導の下、地図作成を行った。途中被爆者の奥本さんにお話をうかがい、最後に各班による発表を行う、といった流れをとった。
GISを使った作品発表
集合写真

3.検証

ここでは、参加生徒のレポートから、仮説に対する効果を検証する。

生徒レポート「上から見た広島」

原爆というものの「大きさ」―これが、今回僕が広島で感じたことである。それは、広島から奪ったものの大きさであり、同時に広島に与えたものの大きさ、そして世界に与えた影響の大きさ、などである。今回の広島旅行の感想と、2年前に個人的に訪れた広島の感想とを併せてしたためたい。1回目の広島旅行では、現在の広島と約60年前の広島との対比が最も印象に残った。その時は、資料館や記念公園、原爆ドーム、そして広島市街を巡ったのだが、歩いていて、現在の広島は完全に生まれ変わった都市だと感じた。何も考えずに歩いていたら、「普通」の都市なのだ。資料などで知っている約60年前の風景を、現在に重ねようと想像力を多いに働かせれば重なる、という具合である。被爆建物は、どこにあるのか知ったうえで探そうと思わない限り目に入らないのではないかと思った。被爆建物の様子が簡単にわかるのは、原爆ドームぐらいであった。ただ、逆に、このことは現在と過去とが同化しているからだともいえる。このように、広島市街は、意図的に想像力を働かせない限り原爆の爪跡を感じることのない市街であった。このことは、逆に、約60年前は惨憺たる有様であったことを強調することにもなる。同時に、これほどまでに生まれ変わった広島にも、直接または何らかのつながりで被爆による被害を受けている人が大勢いるのか、と思った。2回目の今回は、広島が失ったものの大きさを感じた。1回目にも感じたことではあるが、今回の方が痛切に感じた。この差は、視点の位置の違いから来るものだと思う。1回目は、広島市街の内部に視点があったのに対し、2回目は、広島市街の外部に視点があったのである。広島市街を高いところから一望したのだ。「高いところ」とは、江波山気象館の展望台である。江波山気象館は、昭和20年当時は広島地方気象台で、爆心地から南3.7km地点にある施設である。爆心地から約2kmの範囲が、被害が最大級であった範囲であるが、その少し外側からその範囲を完全に見渡すことができた。爆心地の場所、爆心の高さ、きのこ雲の大きさ、といったことが目の前に広がる風景にぴったり重ねることができ、規模の大きさが視覚的にわかる。また、柳田邦男氏のノンフィクション小説『空白の天気図』の舞台でもあるので、そのエピソードからも移入が可能だった。今自分が目にしている広島市のほとんどが奪い去られ、そこにいる人間、建物、社会資本等を一発の原子爆弾が奪い去ったという事実は、今まで頭の中だけで想像していたものよりも規模が大きく、失ったものの大きさを実感を持って考えさせられた。人口は当時が約35万人、現在が117万人という違いはあるが、眼前に広がっている一人間社会を一発の爆弾が奪い去るということは考えられないほど悲惨なことだと感じたのだ。核兵器を使用する人にとっても殺戮の場面は見えないし、軍の人間や核兵器について議論している政治家・学者などの人間は、殺戮の場面を知らずに済む。しかし、兵器の落ちた先には一つの人間社会があるのだ。このことを今回改めて実感した。原爆の場合は特に都市ごと奪い去るうえ、さらには放射能という後世にも残る甚大な被害を残す。

そこで、現在の核を巡る問題についてであるが、広島で感じたことを思い出すと、どうしても、僕は、核保有はなくす方向でいかなければいけないと思わざるを得ない。確かに、これは感情論であり理想論かもしれない。実際問題、核は勢力均衡に大きな影響を与えるし、各国が軍縮に歩調を合わせることは、難しい。しかし、ここで「現実問題」として諦める、すなわち限界を設けても善いのであろうか。軍拡がエスカレートし、危険な兵器が大量に存在する危機的な状態になってしまうのか。短期的な解決は不可能であるが、長期的にみて何らかの方法はないのか、それを探らねばならないと思う。このことを考えるうえで、僕が広島で核兵器の恐ろしさを感じたということは大きな意味を持つと思う。

人間の心の問題としてこの問題を捉えられるとしたら、どうであろうか。ここでいう人間とは、指導者であり、そして市民である。指導者が変われば世界は良くなる、これはあり得るが、非現実的であろう。では、市民の側からも核軍縮はできないものか。一時アメリカの市民運動が軍縮に向かわせたという事実があることも踏まえると、市民の啓発、世論の形成というのは方法の一つとして存在するし、これは捨てられない方法だと思う。方法としては、例えば、教育がある。原爆の正義を唱えていたアメリカの学生が広島の写真を見てショックを受けている様子はよく目にするが、このことからもわかるように、考える材料を十分に与える教育を施すということはとても重要だと思う。心という内面的な問題なので、皆で共有することは不可能だとは思うが、少なくとも、考える材料は十分にある状態にすべきであろう。

この、核を巡る問題は簡単に結論が出る問題ではない。しかし、何らかの光を見出せないものか、これからも考えてゆきたい。

この生徒は2回目の広島訪問であるが、明らかに一回目とは異なる感想を抱いている。それは、授業で使用した『空白の天気図』の舞台を直接訪れたことからえられたものである。また、被爆者の方からの聴き取りなどから、広島に当時生活していた人々の社会を感じ取っており、当初の目的であったリアリティの追求が果たせたことがうかがえる。一方で、いろいろなことを高密度で経験したために消化不良を起こしている部分もみられる。そのほかの生徒のレポートからは、多くの生徒が初めての経験だったこともあり、言葉にできない感情を得たことがうかがえた。

いずれにしても、地歴科における学習と実習を結びつけることにより、社会科学的なアプローチを持った科学への探究心を呼び起こすことができたという点で今回の実習は大きな成果をあげることができた。関係諸方面に深く感謝したい。
被爆者の方からお話をうかがう
写真

(文責:地歴科・大野 新・丸浜 昭)